« 2007年5月 | トップページ | 2007年8月 »

2007年7月の6件の記事

2007年7月30日 (月)

アラヤ識

NHK「爆笑問題のニッポンの教養」の「哲学」の回を観た。

哲学とは思考の修正を繰り返すこと。立ち止まる力だそうだ。

自分の周りの「世界」は言語化することで形成される。
「心」とはそれ以外の言語化・記号化できないもの全て。
言葉にすれば世界となり、それは他者と共有しうる共通知となる。
一方、言語化・記号化できない感覚にも
他者と共有しうるものがある。

なるほど。そうだ。

学生時代の哲学の授業で
「アラヤ識」というのが出てきたのを憶えてる。

アラヤはサンスクリット語で"蔵"の意。
(ヒマラヤは雪を意味する「ヒマ」と
「アラヤ」が結び付いた名前で“雪の蔵”という意味だそう。)

アラヤ識(阿頼耶識)は、
生命が経験した総ての事[身口意(しんくい)]を記録し蓄えている。
人類が誕生(数百万年前)したずっと以前、
生命が誕生した38億年前からの全記録、アーカイブ。
生物の本能や生まれもった性格、素質も含まれる。

引用:「無生庵/八つの識」

 地球誕生  4,600,000,000(46億)年前
 生命誕生  3,800,000,000(38億)年前 
 人類誕生    8,000,000(800万〜500万)年前

その「アラヤ識」は他者と他者との間、
見ず知らずの他人同士でも繋がっているというのだ。

DNAの遺伝子情報もその一部か。
※DNAは30億文字分の情報を記録する2mの紐(細さ2ナノm)。
「アラヤ識」は2000年前の仏教深層心理学である「唯識」の概念。
参考:「無生庵/唯識の世界 」

欧米の深層心理学はフロイト(1856年生まれ)から始まる。
彼が著書『精神分析』で、人間の心の中に意識とは別に
無意識という世界があると提唱したのは1896年(明治27年)。

仏教の深層心理学である『唯識』が理論的に確立されたのは、フロイトを遡ること1600年前。
また、2500年前の釈迦は『無明(むみょう)』と言う言葉で、
人間には意識以外に無意識と言う世界があることを示していた。
釈迦は優れた心理学者でもあった。
引用:「無生庵/唯識(ゆいしき)の履歴書」

2000年前、アジアの心の学問が「心」と「共通無意識」について
暫定的な答えを提示していたことへのインクレディブル…。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年7月17日 (火)

ハードディスクマン

刹那的日々。垂れ流しの日々。人間は自動生命維持装置か。

人間の細胞は7年で全て入れ替わるという。
しかし今の自分があるのは、
10年前の自分があったからだと思わないか。

26の時。ある人に
「26才に何してたなんて、あとになったら誰も憶えてないわよ。
だからなんでも好きな事やればいいじゃない」と言われた。
確かに32の今26の時何やってたなんて答えられない。
しかし26の自分は確かに存在した。
記憶に無いからって「今の自分とは縁もゆかりも無い赤の他人です」
なんてことは通用しない。

同一性の保持。アイデンティティーの問題だ。
思考する生物である人間の持続的な思考、つまり、
その人の理念・信念が、その人がその人たる所以
=アイデンティティーだ。

人間は記憶媒体ハードディスクではない。
記憶から消去された経験は“無”ではない。
人間の血となり肉となり今の自分形成に生かされている。
だから、今この瞬間の行動を侮るなかれ。
刹那的に、「どうせ憶えちゃないから、えいやっ!やっちゃえ!」
という思考法はまさに、心ここにあらず、
現在の自分の核となる自我を否定するような行いである。
(やはりスリルはいらない。)
今この瞬間の思考・行動が明日の自分を形成するのだ。

つまり人間は自動生命維持装置ではない。
自我のない人間はいない。
(精神鑑定しようか?)人間、自分からは逃れられない。
人間の自我は茶渋やシミのように心の底に溜まるのだから。

高密度の日々を送るためには予習復習が必要である。
例えばスケジュール管理と日記をつけること。
刹那的・垂れ流しの日々をやめ、
人間が自動生命維持装置でないことを確認するため。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年7月15日 (日)

人生とは?という問いに対する暫定的な答え

何のために生まれてきたのか?
この問いへの答えは無い。
なぜなら、生まれてきた理由などないから。

人生の目的。そんな物ない。
あらかじめ規定されたものなど。

自らの子孫を作ること。
これは生命体として生まれ落ちた理由の一つではあるだろう。

しかし、人間はもの言う生き物。思考する生き物。
人間はカゲロウでも17年ゼミでもない。
子孫を残す以外にも自分の生きた証を後の世に伝える方法はある。

より多くの人に効率よく伝える方法を考えても良いかもしれない。
それはマルチプルを残す事。
思考を物体化することで、それが媒介物となり
一人一人に語りかけるよりも多くの人に伝達できる。

連綿と受け継がれてきた人類の生命リレーに自分は何を残すのか。
ただ、負の遺産という物もある。(ヒトラーとか)
産み落とせばなんでもいいわけじゃない。

人間の生命力とはパワーの大小だけでは語れない。
質も問われる。生命術とでも言おうか。
だから、早死にした病弱な人でも生命力が高いと言えることもある。
つまり、人間としての生命力が高い人は
より多くの人にいいものを伝える。

命絶える時、惜しまれて逝くのが幸福な生き方なのだろう。
死もその人の人生の一部であるように、
死後もその人の人生の一部といえないだろうか。
(アンデス山脈に栄えたインカ帝国の皇帝は、
その死後もミイラ化され神輿に載せられ、全国を行脚したそうだ。)

猛烈に伝えたいという欲求にかられないか?おい自分!
伝える事に疲れ果てた時、伝わらないことに絶望した時、
人は自殺を考えるだろう。

人間は個体としては存在しえない生命体である。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年7月11日 (水)

もっとそっち側につれてってくれー!

「大日本人」を観た。

東京出張の際、渋谷東武ホテルに宿泊し
夜暇だったので近くの映画館に行く。
「サムライ」とかゆう“つけ麺”のラーメン屋で腹ごなしをしてから…

このつけ麺がまずいのまずくないのってまずい!
冷めたラーメンをピリ辛の熱い汁につけて食えというのだが、
すでに汁は生ぬるいのだ。これが堪え難くまずかった。

そんなことはどうでもいい。
「大日本人」だ。これは面白い。十二分に面白い。
タイトルがいい。シンプルな着想が最高!

しかし、しかしだ。あえて苦言を呈せば(何やねん。誰やねん。)
パーフェクトに練り上げられた「作品」ではない。
緻密な工芸的映画作品ではない。
スキが多い。結果、おしーい!という気になってしまう。

それは役者の演技力によるところが多い。
宮川や宮迫、UAの演技はいうにおよばず
松本の、板尾の演技も完璧にイリュージョンしてくれない。
あっちの世界に持って行ってくれないスキがある。

そういう意味では、この映画の真骨頂は
防衛庁のとほほなおっさん(右側)の語りのシーンかもしれない。
演技でない演技からは、
松本の得意技である生モノをイジル感が顕著だ。
(かといって一番笑えたシーンは他にあったが。)

Dainihonnjin

宮川や宮迫の成り行きで
ルーズな演技をOKにしたのは
松本の優しさなのか。
完璧主義者ではないのかな。
求めたのはTVレベルの娯楽なのか。大衆的分かりやすさなのか。

例えばモンティパイソンにはほど遠い気がする。
英語なので機微は理解できていないと思うが。
やはり1枚も2枚も上手な気がする。
松本の作品、松本のコメディーは、やはりアートではない。
それでいいんだろう。

そう思うと、お笑い界のモーツァルト、
日本最高の天才コメディアンを
超える存在が近い将来出てくる可能性はあるだろう。

要は、日本って言わずもがなのTV文化なのだ。
受動的メディアであるTVが日本文化のほぼ全て。
コメディーもやはり「広く浅く」は避けられない。

「サービス精神が無い者は生きてる資格が無い
(BRUTUS『大松本論』)」と松本は言う。

TVの世界で戦って頂点を極めたこと、
それこそが松本のスキの原因なのだろう。

松本のお笑いの原動力はほぼ“怒り”だそうだ。
本人は完璧怒ってる。それを客前でやるとウケる。
笑いをとれるというわけだ。松本は世間に常に怒っている。

最後のビックリの展開も「いいかな」と思ったけど。
やはりあの世界感でも、もっとイリュージョンしてほしかった。
そういう意味では「宇宙戦争」のほうが上か。
比べるもんじゃないけど。

松本人志よ〜!もっとそっち側につれてってくれー!
(といいつつ)「ビジュアルバム」借りよ〜っと!

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年7月 9日 (月)

戦争リアリティー

今から約60年前、日本はアメリカと戦争した。

その結果、約300万人の日本人が死んだ。

戦争における死とは爆死、焼死、餓死…。

約30,000,000人の日本人が爆死、焼死、餓死などで死んだ。

今から約60年前。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ぼくの復活 〜ネット落伍者としての1ヶ月〜

今、ネット世界に復活を遂げた。
NTTのサポート電話にかけて
オペレーターのハスキーで滑舌の悪いお兄さんの指示のもと
設定画面にちょこちょこ入力。
結果、いとも容易くインターネットにつながる。

こうだ。
ハスキー「パソコンはMacでございますね。では、
  Mac担当の者と代わりますので少々お待ち下さい。」

その後、5分ぐらい待たされる。
(待ちBG:カーペンターズ「愛は哀しみのなんちゃら」×58回)

代わって出てきたのはもと柔道部っぽい低音の男。
もと柔道部「Windows2000のお客様でございますね。」
「いやいや、Macです。
  Mac担当の方に代わると言って待ってるんです。」

もと柔道部「そうでございますか、失礼しました。
  では、少々お待ち下さい。」

(待ちBG:カーペンターズ「愛はかげろうでなんちゃら」×4回)

続いて数十秒後に出てきたのはハスキー…。ハスキーっ!?
ハスキー「大変お待たせいたしました。
  では、お持ちのMacの画面…」

お前かぁ〜っいっ!!!Mac担当わぁ〜っ。
待たされた5分はなんだったんだ。そしてもと柔道部は…。

このあと、いとも容易くインターネットにつながったのだが、
設定画面HPへつなぐためのアドレス入力の
電話越し指示(リモートオペレーション?)がなかなか興味深い。
こうだ。
ハスキー「では、ホンダのH。…スタートのS。
  …ロンドンのL。…NTTのN。エジプトのE。
  …UFOのU。…」

などなど。UFOのUもどうかと思うが、
ハスキーは至極滑舌が悪いので、
この海軍的暗号伝達法は実際非常に機能していた。
スタートなど「ンナート」としか聞こえないのだから、
この伝達法が5倍の時間を労しても文句が言えない。

久々に飯を炊こうなどと血迷ったばかりに、
炊飯ジャーのコンセントを
ルーターのコンセントと差し替えたのが運のつき。
ネット落伍者として1ヶ月を過ごすはめに。

そして今、再びブログの有用性を実感し、
入力する事への渇望を少し感じている私なんです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2007年5月 | トップページ | 2007年8月 »