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2009年4月19日 (日)

前田利常

幼少は越中国守山城代の前田長種のもとで育てられる。

慶長3年(1598年)死の前年の父利家を、
越中に訪ねて初めて会う。
長兄・利長の養子となる。正室は徳川秀忠の娘・珠姫。
豊臣秀頼とは義兄弟にあたる。

慶長5年(1600)関ヶ原の戦いで、
利長と丹羽長重との和睦の際、人質として小松城へ預けられる
(後年、この地を隠居城とした)。

慶長6年(1601)家康より外様大名初となる松平の苗字を授かる。

慶長10年(1605)男子のなかった兄利長の養子となり、
13歳で家督を相続。
加賀金沢119万5千石(実質130万石)の大名となる

桃山文化の伝承(加賀ルネサンス、百万石文化の開化)
に力を尽くし、新井白石をして「一加賀」と称賛され、
伊達政宗も「日本一の大名」と高く評価する程の手腕だった。
徳川政権下、最大の外様大名であった為、
常に幕府に警戒されていた。

Toshitsune

馬鹿殿様を装って加賀藩を安泰に導いた、ウツケを演じた名将として知られ、
わざと鼻毛を伸ばし放題にして日々登城したことは特に有名。
江戸城出仕をしばらく休んだことを、
酒井忠勝に「気ままなことで」と皮肉を言われ、「いやいや、疝気でここが痛くてかなわぬ故」と
満座の殿中で陰嚢を晒して弁解したというエピソードも伝えられる。

慶長19年(1614)利長が高岡城で死去すると、
利長の実母芳春院(まつ)は、
長かった江戸での人質生活から開放され、金沢に帰った。
代わって利常の実母寿福院が人質として江戸に行った。

慶長20年(1615)天王寺・岡山の戦い
(大坂夏の陣における最後の戦い)では、
江戸幕府に対する豊臣家の最後の抵抗を鎮圧するため、
徳川軍第2位となる3200余の敵首を挙げる大功を立てた。

元和元年(1620)幕府の一国一城令で高岡城は廃城となり、
利長の家臣団も金沢に帰ってしまうが、
利常は、異母兄の利長を尊崇する念が大きく、
様々な特権を与えて兄の開いた高岡の町の存続を図った。
高岡は商工のまち、越中西部の流通経済の要衝として栄える。

寛永16年(1639)長男・光高に家督を譲り
(加賀金沢102万5千石)、次男・利次には越中富山10万石、
三男・利治には加賀大聖寺7万石で独立させた。
しかし、光高は江戸に詰めていたため実質的に領内を治める。
治水や農政事業(十村制、改作法)などを行う。

正保2年(1645年)の光高没後、
嫡孫・前田綱紀が藩主に就任すると、後見人となって、
自ら小松に20万石を養老領として藩政を補佐する。

正保2年(1645)から利長の菩提を弔うため、
およそ20年の歳月をかけて瑞龍寺の造営を行う。

正保3年(1646)利長の33回忌にあたる年に、
武将の墓としては日本最大の利長公墓所を建立している。

嫡孫・綱紀の義父・保科正之(徳川秀忠の四男)に後事を託して、
万治元年(1659)死去。
その後、五代藩主となる綱紀の代に加賀藩は、
御三家並の待遇・格式を受けることになる。


参考
ウィキペディア
前田利常列伝

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