カテゴリー「偉人アーカイブス」の7件の記事

2009年5月10日 (日)

尾形光琳 1658-1716

江戸時代の画家、デザイナー、工芸家。
京都の呉服屋「雁金屋」の次男。
後世「琳派」と呼ばれる、
装飾的大画面を得意とした画派の代表的画家。
光琳の曽祖父の夫人は本阿弥光悦の姉。

家業が傾き、
父の遺産も放蕩三昧で使い果たして、
仕方なく絵師になる。

燕子花図屏風
紅白梅図屏風
八橋蒔絵螺鈿硯箱

尾形光琳 - Wikipedia
尾形光琳の世界

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2009年4月29日 (水)

釈尊 2500年に一人の逸材

昨日出席したお通夜でのお坊さんの説法。

釈迦は2500年前に生まれ
35才で覚りを開き
その後、仏として生き、
80才でその人としての生涯を閉じた。

釈迦はいずれ消える自らの肉体を見ず、
教えを見続けなさいと説いた。

釈迦もそうであったように、
命には始まりと終わり、生と死が必ずある。
それが真実。

駐車場に1、2、3、5と番号がふってあった。
子供は「なんで?」と聞いてきたそうだ。

疑問に思わない人は無明(むみょう)だという。
暗闇で迷っていると。
つまり、死を忌み嫌い闇雲に迷信を信じる人は、
真実から目を背け、現実を受け入れられない。

仏となり死に行く人は、
真実を教えてくれる人であると。

2500年に一人の逸材。
その人の教えってどんなんだ。
ウィキペディア
聖☆おにいさん(中村光) 元ネタ集

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2009年4月19日 (日)

前田利長

永禄5年(1562年)前田家藩祖利家の長男として
尾張国荒子城(現在の愛知県名古屋市)に生まれる。
初めは安土城で織田信長に仕える。

天正13年(1585年)秀吉により
佐々成政が支配していた越中国(富山県)が制圧されると、
同国射水郡・砺波郡・婦負郡32万石を与えられた。

慶長4年(1599)利家がなくなると、
豊臣政権を支えるために大坂にいた利長は金沢へ戻った。
豊臣家の力はおとろえ始め、
徳川家康が政治の実権を握るようになる。
家康暗殺事件の嫌疑をかけられ、
実母の芳春院(まつ)を人質として江戸の家康に差し出した。

慶長5年(1600)天下分け目の関ヶ原の戦い
(間に合わなかったといわれる)で家康の味方についた後、
西軍に与した弟の利政の領地(能登)と
加賀国の能美郡・江沼郡・石川郡松任が加領され、
加賀・越中・能登の合わせて120万石を支配する加賀藩が成立。
外様最大の大名として遇された。

慶長10年(1605)なおも消えぬ謀反の疑いを晴らすために、
弟利常と珠姫(2代将軍徳川秀忠の娘、後の天徳院)を結婚させ、
自身は新川郡22万石を養老領として富山城に隠退し、
家督を利常に譲り、難を逃れている(慶長の危機)。

慶長14年(1609)、富山城が焼失したため、
ただちに幕府に願い出て、高山右近に命じて射水郡関野に
新しい隠居城(高岡城)を築いて町を開く。

高岡の町には富山をはじめ、加越能3州から人々があつまった。
また、領内から呼び寄せた鋳物師たちに、
土地を与えて鋳物場を開設させた。
現在国の有形・無形民族文化財「高岡御車山祭」は、
利長が町衆に与えて曳かせたものが起源だといわれている。
山車は、もともと秀吉が聚楽第に、天皇などの行幸を仰いだ際、
使用した鳳輦を利家が拝領し、利長につたえられたものといわれる。

慶長19年(1614年)5月20日に高岡城で病没(梅毒と思われる)。
享年53。


参考
利長、利常プロフィール
金沢市キッズページ

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前田利常

幼少は越中国守山城代の前田長種のもとで育てられる。

慶長3年(1598年)死の前年の父利家を、
越中に訪ねて初めて会う。
長兄・利長の養子となる。正室は徳川秀忠の娘・珠姫。
豊臣秀頼とは義兄弟にあたる。

慶長5年(1600)関ヶ原の戦いで、
利長と丹羽長重との和睦の際、人質として小松城へ預けられる
(後年、この地を隠居城とした)。

慶長6年(1601)家康より外様大名初となる松平の苗字を授かる。

慶長10年(1605)男子のなかった兄利長の養子となり、
13歳で家督を相続。
加賀金沢119万5千石(実質130万石)の大名となる

桃山文化の伝承(加賀ルネサンス、百万石文化の開化)
に力を尽くし、新井白石をして「一加賀」と称賛され、
伊達政宗も「日本一の大名」と高く評価する程の手腕だった。
徳川政権下、最大の外様大名であった為、
常に幕府に警戒されていた。

Toshitsune

馬鹿殿様を装って加賀藩を安泰に導いた、ウツケを演じた名将として知られ、
わざと鼻毛を伸ばし放題にして日々登城したことは特に有名。
江戸城出仕をしばらく休んだことを、
酒井忠勝に「気ままなことで」と皮肉を言われ、「いやいや、疝気でここが痛くてかなわぬ故」と
満座の殿中で陰嚢を晒して弁解したというエピソードも伝えられる。

慶長19年(1614)利長が高岡城で死去すると、
利長の実母芳春院(まつ)は、
長かった江戸での人質生活から開放され、金沢に帰った。
代わって利常の実母寿福院が人質として江戸に行った。

慶長20年(1615)天王寺・岡山の戦い
(大坂夏の陣における最後の戦い)では、
江戸幕府に対する豊臣家の最後の抵抗を鎮圧するため、
徳川軍第2位となる3200余の敵首を挙げる大功を立てた。

元和元年(1620)幕府の一国一城令で高岡城は廃城となり、
利長の家臣団も金沢に帰ってしまうが、
利常は、異母兄の利長を尊崇する念が大きく、
様々な特権を与えて兄の開いた高岡の町の存続を図った。
高岡は商工のまち、越中西部の流通経済の要衝として栄える。

寛永16年(1639)長男・光高に家督を譲り
(加賀金沢102万5千石)、次男・利次には越中富山10万石、
三男・利治には加賀大聖寺7万石で独立させた。
しかし、光高は江戸に詰めていたため実質的に領内を治める。
治水や農政事業(十村制、改作法)などを行う。

正保2年(1645年)の光高没後、
嫡孫・前田綱紀が藩主に就任すると、後見人となって、
自ら小松に20万石を養老領として藩政を補佐する。

正保2年(1645)から利長の菩提を弔うため、
およそ20年の歳月をかけて瑞龍寺の造営を行う。

正保3年(1646)利長の33回忌にあたる年に、
武将の墓としては日本最大の利長公墓所を建立している。

嫡孫・綱紀の義父・保科正之(徳川秀忠の四男)に後事を託して、
万治元年(1659)死去。
その後、五代藩主となる綱紀の代に加賀藩は、
御三家並の待遇・格式を受けることになる。


参考
ウィキペディア
前田利常列伝

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2007年8月20日 (月)

小田実

NHKの追悼番組
かつて小田実は言った

現代の戦争の行き着く先は核戦争
日本はNo more 広島、長崎のために
No more Warを称え続けなければならないし
ドイツは No more アウシュビッツのために
No more Warを忘れるべきではなかった

繰り返される同じ失敗

第二次大戦後アメリカの
ベトナム戦争、公民権運動、経済発展
アメリカ イズ ビューティフル

旧ユーゴスラビアにおけるセルビア人による
アルベニア人の迫害=民族浄化
民族浄化に対してドイツで叫ばれた「No more アウシュビッツ」

「人道的軍事介入」の名の下で行われた
1999年NATO軍によるコソボ空爆
戦争行為=大量虐殺の正当化
「平和維持」の仮面を被った大量殺人
ねじ曲げられたヒューマニズム

アメリカ政府の(経済的、西側諸国への仲間入りなど…)
強い圧力のもと
緑の党と社会民主党の連立政権
(シュレーダー首相の新政権)により
ドイツ軍は第二次大戦以降
タブーであったはずの軍事行動=コソボ空爆に出た。

これは前政権時の国会で可決された
世界に名だたる平和憲法の新しい解釈に基づくものであった。
皮肉にも緑の党は市民の平和反戦運動から起こった政党だった。

繰り返される同じ失敗
日本人が学ぶべき事

この空爆で1500人の民間人が殺害された。
NATO軍の犠牲者0人。

小田実は言った
現代の戦争では軍人はスイッチを押す人間。
戦士は一人も死なない。死ぬのは民間人だ。

戦いとは何か
正義のための戦争はない
戦争=大量虐殺
崇高な精神を持った殺人鬼
『罪と罰』
人間は昨日と同じ過ちを繰り返す。

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2007年4月10日 (火)

隈研吾

NHK「プロフェッショナル」を観た。
負ける建築の隈研吾。
環境に負ける。条件に負ける。

●創造は制約から生まれる。
(脳の創造性も身体という制約と切っても切れない関係)

●コンセプトは貫かれているか。

●japan-architects.com

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ソル・ルウィット

4月8日、コンセプチュアルアートという言葉を最初に公で使用したソル・ルウィットが死んだ。

ソル・ルウィット Sol LE WITTは1928年米国コネティカット州ハートフォード生まれ。
シラキュース大学に学ぶ。62年頃から正方形の木材に彩色して連続的に使用した作品の制作を開始し、ミニマル・アートを代表する作家となる。

●メトロポリタン美術館の作品
●平面作品
[参考]美術家の言葉
[参考(コンセプチュアルアート周辺)]アモーダル・サスペンション

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